
京都銀行は、伝統産業からベンチャー企業まで多様な企業が活発に経営展開する京都で「京銀」の愛称で親しまれ、地域の金融業界でシェアはナンバーワンです。京セラ、任天堂をはじめ世界に名だたる数多くの京都企業の成長を支え、有価証券含み益8241億円(2025年3月末)の強固な財務基盤でも知られています。京都だけでなく大阪、滋賀、奈良、兵庫、愛知、東京など全国174店舗を広域展開する地方銀行の雄、京銀を率いる頭取が経済学部卒業の安井幹也さん(61)です。
各界で活躍する同志社人に聴く『 THE DOSHISHA PERSON 』第15回の春号は2回連載の前編として、「銀行の商品は『人』。一人ひとりの人間力が京都銀行を作っています」と語る安井さんに幼少期から中学高校、学生時代の思い出をうかがいました。

人と人との付き合いを大事にする優しく思いやり
人を育てる同志社

母の勧めで中学受験
同志社香里に入学
─ 京都の生まれ育ちとうかがっています。出身はどちらですか?
生まれも育ちも宇治市で、ずっと宇治の実家に住み、今も地元に友達が何人もいます。
─ 中学から同志社香里に進学されましたね?
地元の小学校に通っていたのですが、5年生の夏休みぐらいの頃に中学受験しようと思いました。といっても僕の意志というよりは母が「受験したらどうか」と言い出したことがきっかけです。近所の塾に通い始めました。母は昔から同志社大学に憧れをもっていたようです。詳しくは聞いていないのですが、母の友人に同志社出身の人が多かったことから、我が子も同志社に行かせたいという思いだったようです。
学校の同じクラスで中学受験したのは2、3人。当時はまだ「中学で受験って何」という感じでした。僕も合格できたらうれしいし、行けなくてもいいので、とにかくやってみようかと割と伸び伸びと考えていました。6年生で模擬テストを受け合格判定が出るようになって、共学の同志社中か、当時は男子校だった同志社香かで、最終的には香里を受験し、合格することができました。
同志社中
創立以来の今出川校地から、2010(平成22)年に京都市左京区の岩倉へ移転した。
同志社香
2001(平成13)年度から男女共学になった。
部活とテスト勉強両立し「100番以内」をキープ
─ 京阪電車で香里園への通学は結構近かったのでは?
便利ではありましたが、ドアツードアで1時間10分くらい。とにかく毎朝通勤通学ラッシュの満員電車に乗って、急行なんてとんでもない混雑で、下車するのもたいへんで。中1の最初は通学だけでヘトヘトでしたけれど、3カ月ほどで慣れて、各駅停車で座っていこう、みたいになりました。
─ どんな学校生活でしたか?
大学は同志社大学に進めるだろうと思っていたので、中学・高校では「クラブを何かやろう」と考えていました。最初にできた友達がバレーボール部に入って「一緒にやらないか」と誘ってくれたことから、入部しました。バレーボールは初めてでしたが、その友達を含め7、8人で通学の行き帰りもずっと一緒に過ごし、そうこうしているうちに他の運動部の生徒たちとも仲良くなりました。みんなで学校の帰りに駄菓子屋さんに集まったりして楽しかったことをよく覚えています。
中学のクラブは、体力をつけられればというような感じでしたが、高校ではレベルが一気に高くなり、顧問の先生の指導も真剣そのもの、勝ちにこだわるバレーボールに徹し、高3の最後に大阪府でベスト8まで進出しました。

─ バレーに熱中して打ち込まれたのですね。強豪ひしめく大阪で、なかなかの健闘ですね。
大阪はやはり他に私立の強豪が多いです。本当に、バレーボールに打ち込んだ中学、高校時代でした。それでも定期試験の時には必死で勉強しました。中間テストや期末テストでしっかり成績をあげ、大学の推薦を受けられるようにということは常に意識していました。当時は「学年で席次100番以内に入れば、大学で希望する学部へ行ける」と言われていましたので、大学で学びたいことが学べるよう、中学、高校からの積み上げは大切にしていましたね。普段はクラブばかりで、帰ったらバタンキューでしたので平日はそこまで勉強に取り組むこともできていなかったかもしれませんが、試験前の勉強量はすごかったと思います。試験前の10日間はクラブが休みになるので、それこそ必死に勉強し、おかげで成績を維持できていたと記憶しています。
定期試験に注力、経済学部へ進学
─ 私たちも香里卒業なのでよく分かります。部活動と定期試験の勉強を両立して100番以内に入るのはなかなか大変なことで、見事に両立されたのですね。経済学部を志望したのはなぜですか?
文系志望でしたが、当時はまだ今のように学部がたくさんあったわけではなく、文系は法、経済、商、文、神の各学部でした。私は英語が苦手だったため、経済か法がいいと考えていました。社会科ではどちらかと言えば政治経済の授業が好きだったことから、経済学部を第一志望にし、おかげさまで入学することができました。
─ 大学でもバレーボールは続けたのですか?
バレーボールは続けましたが、挫折の連続で、正直、真剣に打ち込んだのは高校までですね。
トップゼミで論文に奮闘
経済学原書の英訳に苦戦
─学生時代の一番の思い出は?
大学に入ってから一番の思い出は3年生からのゼミです。大学ではさまざまな分野の講義にたくさん出ましたが、2年生の時に岩根達雄先生の金融論の講義を受講し、マクロ経済学のすごい先生だと感じ、岩根ゼミにぜひとも入りたいと思いました。経済学部のトップゼミで、ゼミの先輩も優秀な方ばかり。成績上位から順番に希望者が入れるのですが、僕はたまたま、運が良かったことから入ることができて、「ほんまに奇跡や」と思いました。
しかし、入ったらもう一番の落ちこぼれでした。授業が全部英語で、渡されるテキストは経済学の難しい英語の原書ばかり。原書を1回で30〜40ページ読み込んできなさいと言われ、まず英語を訳すところから始まるわけです。他の学生は優秀で、さらさらと和訳するのですが、私はまず訳すことに大変な時間がかかり、しかも経済用語が分からず、用語辞典を引っ張ってきて、1週間先のゼミに向けて必死に勉強しました。
ゼミの友達も本当に優秀な人ばかりで、就職先はほとんどみんな金融機関志望でしたね。ゼミ27、8人のうち男女問わず、もう軒並みほぼ金融機関、特に都市銀行や生損保に入社する人が多かったです。
いわね・たつお 1919〜2011
京都市左京区生まれ。経済学博士。旧京都一中、三高を経て京都帝国大学経済学部で金融論を専攻。卒業後、同志社大学経済学部助教授、教授、名誉教授。ケインズ経済理論、近代貨幣理論、信用創造理論などを研究課題とした。学生に対しては語学力の重要性を強調し、ゼミナールでは一貫して英文の原書をテキストとして使用。学生の欠点を追及するよりも長所を見いだして発展させることを重視したと評価が高い。学部長のほか、大学の就職委員長も歴任した。
「京都に愛着」感じて
都市銀行より京銀を選択
─当時、金融機関は文系の学生で就職先として人気が高く、中でも都市銀行は花形でしたね?
そうですね、ゼミの中でも地銀志望の学生は少数派ではありましたが、私は京都銀行が就職先の第一志望でした。京都に残りたい思いが強かったからです。ゼミの中で地銀志望は3、4人でしたが、岩根先生に聞くと、「安井君には向いているかも分からんな」と言われたのを覚えています。
都市銀行を全く受けていなかったのかというとそうではなく、クラブやアルバイト先の先輩やゼミの先輩も都市銀行に入った人はたくさんいましたし、私も就職活動の際は当時あった13行全行に足を運びました。しかし、生まれも育ちも京都なので、京都に残って京都のためになるような仕事をしたいという気持ちが強かったことから、やはり京都銀行に行きたいという思いは持っていました。また、家族も地元に残ってほしそうだなとなんとなく感じていました。実家は兼業農家で田んぼもあったので、そういったことも関係していたかもしれませんね。なにより私は京都をよく知っているし、「一番愛着ある京都にいれるなら、それがいい」と思いました。これが京都銀行第一志望の理由です。ここで仕事をすれば生活面でも無理なく、一番安定でき、居心地がいい場所だという思いがありました。
他の地銀は受けず、
京都経済支える京銀に絞る
京都は日本の歴史と文化の中心地の一つであり、国際的にも有名な都市です。人口も多く、観光地としても非常に重要な役割を果たしています。そういった背景もあり、「京都だからこそ地銀を選んだ」、そして「京都銀行だから京都に残ろう」という思いもありました。当時から、当行のポテンシャル、ブランド力というか、地元・京都を支えている銀行だという部分に魅力を感じていました。
─当時は就職協定がありましたね?
就職協定が8月20日解禁日に改定された一年目でした。解禁日の朝から選考が一斉スタートし、私は朝一番に京都銀行本店の前に並びました。先頭から3番目に並んでいたことを、今でもよく覚えています。すぐ面接を受け、その後、四条烏丸まで走って阪急電車に飛び乗って梅田から淀屋橋へ。御堂筋の都市銀行を回り、5行ほど受けました。大変ありがたいことに後日内定をいただいた銀行もあったのですが、京都銀行の選考が途中だったため、内定を辞退する決断をしました。
─卒業前にはゼミ論文も書かれたそうですね?


大学卒業のゼミ謝恩会でマイクの前に立つ
「国際収支の均衡理論」というテーマで、手書きで原稿用紙200枚もある論文です。先生から何度も指摘を受けながらも苦労してまとめました。当時は、為替が固定相場制から変動相場制に変わって、円高に進んでいた時代でした。私は国際収支や貿易収支にとても興味があり、さまざまな本を読んで論文を書きました。この論文は今も手元に大切に残しているのですが、今の私が読んでも学生時代によくこんな論文を書いたなと感心するような内容です。グラフも全部手書きです。当時はパソコンなんてなかったので4、5カ月かかりました。こういった経験をしていたので、就職活動の時は、ゼミのことを聞かれると結構得意に答えられたものです。
─学生時代全般を振り返っての思い出は?
友達も多くできましたし、アルバイトも飲食店の他、宇治市が募集した小学校の学童保育の補助員をしました。今ほど学童保育が一般的ではなかった時代でしたが、子どもたちとの触れ合いができたのはすごくいい経験でした。
頭取になっても変わらない
人として大切にし合える関係
─同志社大学の良さはどんなところに感じましたか?
人と人との関わり、付き合いを大切にするところだと感じています。そして、優しいというか、人を大切にし、人に対する思いやりがあり、人を育てる心がある人が多いと思います。同窓生と会っても、京都銀行の頭取としてではなく「安井は安井や」という感じで、一人の人として、普通に、大切にしてくれる、そういう意味で昔の関係に戻れるのがとてもいいですね。
もちろん自由で、とても個性的で、それぞれが勉強やクラブに打ち込んだり、とにかく遊んだり、自分のやりたいこと、個性を伸ばしていける環境があるのが同志社の素晴らしさだと実感しています。
また、とてもありがたいと感じるのは、先輩後輩のつながりがしっかりしていることです。これは大学だけでなく、中学・高校(香里)のほうでも実感するのですが、例えば大阪へ行くと、香里の先輩や後輩で商売をされている社長がたいへん多いのです。そういった方々に懇意にしていただける、かわいがっていただけるのはすごいことだし、ありがたいと感じています。そういう時、同志社大学、そして香里のつながり、人脈は本当に頼もしく、温かく、これからも大切に守っていかなければ、と思いますね。
やすい・みきや
1965年京都府宇治市生まれ。
京都銀行頭取、京都フィナンシャルグループ取締役。
同志社香里中、高校を経て1987年同志社大学経済学部卒業。京都銀行に入行。河原町支店などを経て寺町二条支店長、秘書室長、執行役員・人事部長、常務取締役(本店営業部長)などを歴任し、2023年6月から現職。
対談後記
「人を大切にする」共通点に感銘
新聞社の京都支局で経済・文化担当をしていた数年前、京都銀行を数回にわたって連載記事で紙面化したことがあります。単に京都の地方銀行の枠にとどまらず、巨大企業グループ・トヨタのお膝元の愛知県などにも店舗を次々と展開する一方、女性行員を積極的に支店長など幹部に登用するなど多様な顔をもち、企業としてもたいへん面白く、「連載で取り上げるニュースバリューが十分ある」と感じたものです。
銀行といえば「雨の日に傘を貸さない」の言葉で知られるように、とかく慇懃無礼で、「笑顔を見せても瞳の奥は笑っていない」人の集まりとの偏見も聞いたことがあります。しかし、当時取材で出会った京銀の皆さんは幹部も行員もそうした印象と一線を画し、「気さくで親しみやすく、良い意味で銀行員らしさをあまり感じられないのが面白い」と思ったのをよく覚えています。
今回、安井さんのお話をうかがって、「人間的であること」を大切にしておられる京銀のイズムは、「人一人を大切にする」同志社精神にも通じるところがある、という思いを深くしながら、春夏2号の連載記事を書いています。